戦争で一端途切れた年賀状ですが、年賀郵便の特別取扱が1948年(昭和23年)に開始され 翌年にはお年玉つき郵便はがきが発行されるに至って、ようやく息を吹き返します。
当初のお年玉つき年賀はがきは、発行された18,000万枚の内、15,000万枚が寄付金つきでした。
また、26年用に発行されたはがき4億枚は全て寄付金つきでした。
お年玉つき年賀はがきの発案者である、京都の林正治(はやし まさじ)氏は、井上女神氏に
次のように語っています。
「昭和二十四年六月二十一日の夜明け、ふと浮かんだアイデアがこのハガキでした。その時代はドッジラインとか
竹の子生活とかいう言葉が流行して、国民は正に竹の子生活をしてその日を暮らしていた。耐乏生活の最中でした。
その頃の新聞やラジオのニュースは下山国鉄総裁怪死事件や三鷹事件など、相次ぐ社会不安の中でした。
これらの人達が終戦後、散り散りばらばらになったまま音信不通。
ラジオの尋ね人の放送が長い時間毎日、肉親や友人や知人を捜している。お互いの無事を確かめ合い、励まし合うこと
が出来たら。そんな方法は?そうだ!それには年賀状が一番良い。それにお年玉を付けたら、もらった相手は懐かしさに
加えて心が和むのでは・・・・・。
そんな想いがスーッと頭の中をかすめていった。私は絵が好きだから(チャーチル会々員)
早速、賀状の図柄を二、三ばかり作り伝を頼って、時の小沢郵政大臣にお会いしょうと、東上しました。郵政省内でも
賛否両論に別れましたが、特に大野次官が、大乗り気で、やろう、と言うことになり、国家承認(法律改正が必要なので)を
経て、その年の十二月一日に一億五千万枚売り出されました。当時一般の給料が七、八千円でした。普通の官製はがきが
二円、でお年玉はがきはプラス一円、果して売れるかどうか心配でしたが、案ずるより生むが易しの諺通り、仲々の好評で
大いに感謝され、ほうびに郵政審議会専門委員という肩書まで貰いました。
ところが翌年は二倍以上の四億枚も印刷したので、かなり売れ残り、私も責任上、自分で車を運転して街を走り廻って
三、四万枚ほど売りました。これが戦後の復興の原動力となって、日本人の心に明るい灯を投げかけることを期待しての
私のささやかな祈る気持ちでありました」と、林さんはお話し下さった。
(室町書房 井上女神著 ねんがじょう曼荼羅より)
この昭和25年用のお年玉つき年賀はがきの発行がキッカケとなって、それ以後年賀状は増え続け 平成10年頃にピークを迎えることになります。 意外と知られていないのですが、当初は当選番号が66もあり 抽選にも大変時間がかかったことだろうと推測されます。





