江戸時代から明治の初めにかけて「年始状」と「年賀状」とは明らかに使い分けられていました。 普通の新年のあいさつ状(今、私たちが年賀状と呼ぶもの)は「年始状」。 「年賀状」には、長寿を祝うという意味がありご高齢の方に宛てて出す新年のあいさつ状を 年賀状と呼びました。 ご存知のように、近代郵便制度が整うまでは、飛脚による配送が一般的で、料金もそこそこ 高かったことから、武家や商家が主なユーザーで、一般庶民が賀状を交換することは希であった。


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(朱の文字) 不昧公からの返し |
(黒の文字) 忠以公→不昧公 |
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右上に武士の平伏しの図、文面は「猶、永日之時ヲ期シ候、恐惶謹言、正月二日」とごく簡略。これは当時の年始状の
末尾の部分で、「永日之時ヲ期ス」とは<良い日をお過ごし下さい>という意味です。
さて、この書状は、寛政2年(1790年)正月、時の姫路城主 酒井忠以公(宗雅)が在勤の江戸より、松江藩主
松平不昧公(未央)他にあてた年始状で、茶人仲間の地元近隣の藩主名が連記されている。
左上の「右茶炉下」は(右茶人仲間へ)という意味だそうです。
さて、これを受取った不昧公は「御慶千里同風永春ノ候ノ訪レヲ賀シ奉リ候、恐惶謹言」と朱で加筆し、日付を訂正し
平伏の武士の図の上に「上様」と朱書。仲間5人のあて名の(公)を消して上に(下)を加筆、この(下)の書体がそれぞれ
違うところからみて、恐らく茶会の折に仲間に披露して、江戸へ返送したものと思われます。
(吉田 青湖 「日本の年賀状」より)