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年賀状の歴史

5.年賀郵便制度の普及と私製はがきの認可

明治30年代は、年賀の歴史を考える上で非常に重要な決定(逓信省)が2つあり 絵はがきブーム、年賀状ブームの基礎がかたち作られた。 今では当たり前だが12月の指定された期間内にはがきを投函すると1月1日に まとめて配達されるという制度は明治32年の12月に一部地域で始まり、明治39年12月に 日本全国で実施されることとなった。 また、明治33年10月1日から私製はがきが認可され「絵はがき」なるものが登場し 紙屋、文房具店で販売される他「絵はがき屋」も全国的に増加していった。

京都府舞鶴の絵はがき
エハガキ屋玉木商店の 旗がひるがえる

この私製はがきによる「年賀絵はがき」の登場は年賀マーケットを一変させた。 それまで(明治32年12月)は官製はがきを購入して活版屋へ行き、貧弱なサンプル集から 選んでスミ一色で印刷をしていた人たちが、官製はがきよりも少し厚手の洋紙に金銀を含む 石版多色刷(その当時フルカラー印刷の技術はなかった)されたその当時としては 大変美しい絵はがきを購入して、年賀状として差し出すこととなった。

この明治34年の年賀状に熱い期待を抱いていた文化人の一人、巖谷小波(いわやさざなみ)の話を転載します。

【巖谷小波祖父さんの當時の述懐】
今から四年前余は初めて洋行して、繪葉書の本場とも云ふべき獨逸に滞在する事と成つたが恰もその時代である。 今度いよいよ日本でも私製繪葉書が發行されると云ふことを新聞で見た時のその嬉しさ! その嬉しさと楽しさとで首を長くして待つて居ると、其次の年の年始状には日本の繪葉書が山の様に舞ひ込んだ。 然るに一々これを見るとさりとてはお座の覚めた物計り。彼赤髭の余に戯れて、日本の景色は富士山に限り 鳥は雀より他には無いのかと云はれてもさて一言も無かった。
而も版の悪さ、紙の粗末さ!遥々太平洋(私註當時はシベリャ鐡道が無かつたから米國を経由する郵便が 一番早達であつたのだ)を渡つて来る中には破れたり、擦れたりして折角のアルバムにも入らない位、さりとて 紙屑籠にも投げ込むに忍びず、あつたらハシリの日本繪葉書を寧ろ荷厄介に感じたのは蓋し余ばかりでは 無かつたらう。
然るに三年經てば三歳に成るたとえ、此頃發行される物を見るに、もはや呉下の阿蒙に非ず。 今一番の工夫を要せば、優に歐州の本場物に對して肩を並べるに足らうと思ふ。
且つ夫れ私製葉書の長足の進歩は、また官業のそれをも刺激し、今度の戰役記念葉書の出来榮など 先に郵便同盟記念を發行して、寧ろ恥を萬國に曝らしたお手並みとは正に雲泥の差と云つて可なりだ。 兎にも角にも斯道の為めには喜ぶ可きことだ。
(明治三十九年七月日本葉書會出版繪葉書趣味抜萃)
樋畑雪湖 著「日本絵葉書史潮」より

明治30年代の年賀状で、官製はがきを使った従来のタイプのものと、私製はがきによるデザインを 比較してご覧ください。

《官製はがきを使用したもの》

《石版印刷によるもの(私製はがき)》

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